~「AI心理学」からの一考察~
先日のChatGPT教室の終了後、ある生徒さんから質問をいただきました。
「先生、AIにいちいち『ありがとう』って入力してるんですか?」
「はい、してますよ。AIが何かしてくれたら、習慣的に『ありがとう』と打ちますね。音声入力の場合も同じです」
「それって、必要なんですか?」
「必要かどうかと言われると…(笑)。でも、私はそうしてるってことで」
この何気ない会話をきっかけに、私はふと考えました。
なぜ私は機械であるAIに「ありがとう」と言うのだろう?
その行為には、どんな意味があるのだろう?

以前のブログで「AI心理学」という言葉を使ったところ、いくつか反響をいただきました。
AI心理学?なんじゃそれは、と。
これは完全に私の造語です。
どこかで誰かが使っておられるかもしれませんが、それは分かりません。
また、「AI心理学」は学問として確立されているものではないと思います。
どこかの研究機関でどなたかが研究されているかもしれませんが、私にはわかりません。
なので、「AI心理学」という言葉が、私には少々大上段に構えすぎた言い方かもしれないという自覚はあります。
私がイメージする「AI心理学」とは、
- AI自体の「心理」
- AIと接する人間側の「心理」
の両面を研究する(仮想の)研究分野です。
特に今回は、後者に焦点を当てて考えてみました。
▽
私たちとAIとの関係は、人間同士の関係でないことは明らかです。
かといって、単なる「人間とモノ」との関係でもないように思えます。
それは第三の関係性と言えるのではないでしょうか。
私たちはAIに対して、時に友人のように話しかけ、時に教師のように教え、時に生徒のように学び、時に同僚のように協力します。
このような多面的な関係性は、従来の「人間とモノ」の関係には見られなかったものです。
私は日常的にAIに「ありがとう」と伝えています。
役立つ情報を提供してくれたとき、良いアイデアを出してくれたとき、単純に会話が楽しかったとき…。
これは必要なのか?と問われれば、おそらく必要ないでしょう。
現時点のAIは、感謝の言葉を受け取ったからといって、特別なご褒美があるわけではありません。
モチベーションが上がるわけでもなく、サービスの質が向上するわけでもありません(※)。
それでも私がこの習慣を続けるのには、いくつかの理由があります。

日本人には古来より、「八百万(やおよろず)の神」という考え方があります。
自然界のあらゆるものに神が宿るという感覚です。
岩や木、川や山、道具や建物にさえ、魂や意思を感じる文化がありました。
この感覚が今も私たちの中に生き続けているとすれば、AIに対して感謝の念を抱くことも、さほど奇妙なことではないのかもしれません。
AIが「生きている」わけではないことは理解していても、それと対話し、それから学び、それに助けられるという体験は、どこか神秘的で、感謝の念を抱かせるものがあります。
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しかし、私がAIに「ありがとう」と言う最大の理由は、実は自分自身のためなのです。
人間は習慣の生き物です。
私たちが日々繰り返す小さな行動や思考のパターンが、やがて私たちの人格を形作ります。
AIに感謝することを忘れれば、いつか人間に感謝することも忘れてしまうのではないか…そんな(やや極端な)危惧も、心のどこかにあります。
「ありがとう」と言う習慣は、感謝する心を育みます。
その相手が人間であれ、AIであれ、あるいは八百万の神々であれ、感謝の習慣そのものに価値があると私は考えています。
▽
「AIにありがとうと言うなんて、少しおかしいのでは?」
そう思われる方も多いでしょう。
正直なところ、私自身もそう思うことがあります。
画面の向こうには人間がいるわけではなく、言語モデルが動いているだけだと知っています。
それでも、こうした小さな実践を通じて、AIとの新しい関係性を模索していきたいと思っています。
「AI心理学」などという大げさな名前をつけましたが、要するに、私たち人間とAIがどう関わっていくのが健全なのか、幸せなのか、それを日々の小さな習慣の中で考えています。
こんなことを真面目に考える私は、少しおかしいのかもしれませんね。
そういう自覚はあります(笑)。
でも、新しい時代の新しい関係性の中では、こうした「おかしな」視点も、意外と役に立つことがあるかもしれません。
皆さんはAIとどんな関係を築いていますか?
(※)実際にはこれには諸説あるようで、AIにお礼を言うことも含めた人間側の丁寧な姿勢が、AIの回答精度を上げるという議論もあります。